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金融アトラス

個人の勉強も兼ねて、少しずつまとめます。

日本における1997年の金融危機について―個別事例の検証―

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本ページでは、97年の日本の金融危機についてまとめたい。この時期、日本では多くの金融機関が破綻に追い込まれた。

 

三洋証券

証券業界の準大手であった三洋証券は、バブル期の積極的な経営(繰り返しの合併など)で成長を遂げた。しかしこれは、過剰な設備投資の原因となる。さらに、三洋証券の子会社である三洋ファイナンスは、バブル期に不動産関連融資を積極的に行ったが、バブル崩壊後それらは不良債権化してしまった。これらによって、三洋証券は深刻な経営難に陥った。これに対し大蔵省は、再建9か年計画を策定した。これは、生命保険から奉加帳方式(付き合いで金銭を負担することで、転じて民間金融機関から経営難に陥った金融機関のために資金を集めること)によって劣後ローンを受け入れるなどして資金を得て、9年かけて不良債権を返済するというものであった。しかし、三洋証券の赤字は改善されることはなく、1997年10月31日の劣後ローン延長期限を過ぎ、ついに資金繰りが困難になった。11月3日、会社更生法の適応を申請、これは戦後初の証券会社破綻であった。これを受け、インターバンクコール市場でデフォルトが生じた。このデフォルトは金融機関に大きな衝撃を与えることとなる。

 

北海道拓殖銀行

拓銀は、他の多くの銀行と同じように、バブル期に不動産関連融資を活発に行った。そして後の不良債権問題に深くかかわるのは、カブトデコムとソフィアという当時急成長していた企業への融資であった。拓銀はこの2社に多額の融資をしていたが、バブル崩壊後にこれらが不良債権化、拓銀不良債権が急増した。しかし、これらの企業を潰すという選択は取らず、資金を追加注入という形をとったので、不良債権はますます増大した。

 

これら不良債権を、拓銀は「飛ばし」(決算時に損失を隠すため、含み損のある有価証券を一時的に第三者に転売すること)という形で隠蔽した。しかし、1995年設立後初の赤字転落を経験し、さらにムーディーズからEランクの格付け受けたことで、拓銀の経営難は明らかとなった。

 

これに対し大蔵省が取った方策は、北海道銀行との合併であった。一度は双方ともに合意したものの、長年ライバルであったことによる確執などもあり、この計画は凍結される。

 

この間預金の解約や資金流出、株価の暴落が続き、三洋証券後のコール市場におけるデフォルトによって、資金繰りの悪化に拍車がかかった。最終的に、北洋銀行への営業権譲渡という形で決着がついた。

 

山一証券

山一証券は、日本の四大証券の一つとして数えられていた。山一も他の金融機関と同様、バブル期に行った多額の融資の不良債権化に苦しんだ。拓銀と同じように「飛ばし」を行い、含み損を隠し続けた。山一にとって大きな痛手となったのは、主幹事として資金を提供していた拓銀が破綻したことによって資金繰りが悪化したこと、三洋証券のデフォルトによってコール市場で資金を提供することが困難になったということである。11月24日、山一証券は自主廃業を決定した。

 

以上、金融危機を象徴する三つの事例を見てきたが、これらが全て一か月の間に起こったということは注目に値する。三洋証券破綻後のコール市場におけるデフォルトが、他の金融機関を大きく動揺させ、破綻への動きに拍車をかけた。竹森(2007)は、1997年という特定の時点に金融危機が起こった原因として、このデフォルトにより信用収縮が起こり、「マーケットから流動性が干上がる」現象が起き、大型破綻に繋がったと指摘している。この三金融機関の相次ぐ破綻により、日本の金融機関において信用収縮が起こり、結果として金融危機、景気悪化が生じたとの見方もある。こうした連続破綻によって、日本の会計制度や金融監督の水準に対する信用が失われたのだ。

 

(参考):

竹森俊平(2007)『1997年―世界を変えた記金融危機朝日新聞社