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金融アトラス

個人の勉強も兼ねて、少しずつまとめます。

日本でバブル崩壊から金融危機まで数年のタイムラグが生じた理由について考察してみる

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1980年代後半、日本では「バブル景気」と呼ばれる好景気が起こり、資産価格や株価が上昇、1989年から92年まで日本は国際経営開発研究所(IMD)の発表する国際競争力ランキングで世界1位だった。この頃日本経済はまさに絶頂期にあった。しかしこの好景気は長くは続かず、1990年頃から資産価格と株価が急落し始め、バブル経済は崩壊、その後長期にわたり日本は経済低迷に苦しむこととなり、その低迷ぶりは「失われた20年」と呼ばれるほどである。

 

この長期低迷の中、1997年に日本で金融危機が生じた。これは、銀行や信用組合等の金融機関の破綻が急増した現象である。この年、当時日本の四大証券会社の一つであった山一証券といった大規模な金融機関が破綻し、世間に大きな衝撃を与えた。

 

本ページでは、バブル崩壊金融危機の間にはどの様な関係があるのか、とりわけ、なぜバブル崩壊から金融危機までに7年もの月日が流れたのかについて考えてみたい。

 

(1)国家保険システム

まず根底にあるのは、大蔵省をはじめとする金融監督機関が、基本的に金融機関を潰すことはないというスタンスをとっていたことである。西村(2009)は、これを「国家的保険システム」と表現し、市場原理に基づき「創造的破壊」を促すアメリカとは異なり、日本には不良債権処理を促し金融機関の破綻処理を即座に行うという考えはなかったと指摘している。このいわゆる護送船団方式は、少なくとも1994年頃までは続いた。

 

また、自己資本不足の金融機関が営業を続けられるように自己資本比率を緩やかに設定されていた。櫻川・櫻川(2009)によると、1992年に一定の自己資本保有を義務付けるBIS規制が導入されたが、その遵守をめぐり、銀行に様々な会計的裁量が認められたという。このことも、日本の“潰さない”金融システムを表しているとも言える。

 

(2)楽観的思考

日本経済の先行きに対する楽観的な考えがあったことは否定できない。バブル崩壊後、資産価格が急落し、金融機関は大きな不良債権を抱えることになったが、崩壊直後はこの現象は一時的なものであり、すぐに回復するだろうという見方が一般的であった。そのため、財務当局は具体的な方策を取らず、事態を静観するというスタンスをとっていた。金融機関の側も、上記の通り金融機関は国家によって保護の下にあるという考えから、事態に楽観的であった。

 

(3)法的枠組み形成の遅れ

また、1990年代は、未だに危機に対処する法的枠組みが十分に整えられていなかった。金融機関の経営危機が高まるにつれて、徐々に危機に対するセーフティーネットが構築されたといえる。

 

1994年、東京協和、安全信用組合が破綻したことを受けて、破綻処理機関である東京共同銀行が設立された。これは、日銀と民間企業の出資(奉加帳方式)で誕生したものである。さらに、金融危機が表面化した後の1998年、公的資金注入に繋がった金融機能安定化法が成立した。これまで公的資金注入は、経営難に陥った金融機関に税金を投入することを意味するため、世論の批判が強く、政治的な支持を取り付けるのが困難だった。そのため、公的資金注入が遅れたのである。そして同年、金融再生法、金融機能早期健全化法により、金融危機に対処する枠組みが成文化された。

 

このように、危機を対処する枠組みは徐々に形成されていったものであり、バブル崩壊直後から確立されたものはなかったと分かる。

 

(4)公表の遅れ

 日本銀行や大蔵省が、不良債権問題の深刻さを公表しなかったという側面もある。これによって世間に問題が発覚するのが遅れた。深尾(2009)は、これには二つの理由があると指摘する。第一に、多くの金融機関が債務超過や資本不足に陥っていたこと、第二に、破綻処理には多額の公的資金注入が必要であるとされたことが挙げられる。前述の通り、公的資金注入には世論の反発が強かったため、問題の公表は世間の大きな動揺をもたらすと判断されたのだ。

 

(5)金融機関の不良債権処理先延ばし

この時期の金融機関は、再生の見込みのない融資先に対してもなお、追加融資を続ける「追い貸し」を行っていた。それは、不良債権を処理する体力がなく延命を図ろうとするために行うのであり、時がたてば回復してくれるだろう、という期待が含まれていた。反対に、健全な企業に対しては、むしろ貸し出しを制限して自己資本を維持しようとした。したがって、貸し渋りと追い貸しが共存していたということになる。実際、銀行の貸出残高が急減するのは、金融危機が起こってからである。

 

以上が、バブル崩壊から97年金融危機までのスパンを説明する要因である。では、これらの要因がそれぞれどれほどの期間にわたって作用していたのだろうか。

 

90年代前半は、(1)や(2)の理由、すなわち日本の従来の金融システムや楽観的思考が大きく関与しているとみられる。バブル崩壊の影響力に関して、正しい認識がなされず、旧態依然の考え方が引き継がれた。90年代半ば、いわゆる住専問題が発覚するなど、危機の予兆がみえた頃、これらの従来型システムや考え方は変わらざるを得ないことになったが、今度は危機を迅速に処理する枠組みがなかったこと、すなわち(3)の要因がさらに危機の表面化を遅らせた。そして危機が起こるまでずっと一貫していたのは、(4)や(5)の要因、すなわち行政や金融機関による不良債権処理の先延ばしである。これらの複数の要因が複合的に組み合わさったことにより、金融危機は遅れたのである。

 

(参考):

野村総合研究所(2014)『金融ITフォーカス 量的・質的金融緩和の効果はどこまで波及したか』

西村吉正(2009)「不良債権処理政策の経緯と論点」『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策 分析、評価編 第4巻不良債権金融危機』、経済社会総合研究所

櫻川昌哉・櫻川幸恵(2009)「地価変動に翻弄された日本経済」『バブル/デフレ期の日本経済と経済政策 分析、評価編 第4巻不良債権金融危機』、経済社会総合研究所

Hiroshi Nakaso(2001) “BIS Papers No 6 The financial crisis in Japan during the 1990s: how the Bank of Japan responded and the lessons learnt,” Bank For International Settlements